天国行きの船に乗りたがる人たち──“正しさ”を振りかざす人々へ

その世界には、一隻の船があった。
行き先は「天国」。乗れるのは、ほんのひと握りの“正しき者”たちだけ。
地球を愛し、動物を愛し、自然を守ってきた人々が、胸を張って乗り込んでいく。
「私たちは間違っていない」「私たちは世界を変えてきた」
けれどその船の下には、押し上げるように支えている無数の人たちがいた。
「地球に優しい」と言われる電気を作るために山を削り、
サステナブルな商品を届けるために、今日も即日配達のトラックを走らせる人たち。
果たして、“正義”とは誰のためのものだったのか。
「正しさ」は万能の免罪符?
最近よく耳にする、「エシカル」「サステナブル」「地球にやさしい」。
それ自体は、素晴らしい考え方だと思う。
けれど、問題はそれを“振りかざすこと”が目的になってしまう瞬間だ。
「私はマイボトル派」「肉は一切食べません」「服はリユースのみ」。
立派だけど、それを“してない人”を見下すような態度を取ったとき、
それは正義じゃなくて、優越感という名の選民思想ではないだろうか。
影で支える“天国に行けない人たち”
自分の「正しさ」に酔っている間、
誰かが犠牲になっていないかを、私たちはちゃんと見ているだろうか。
ビーガンの人が食べるアーモンドミルク、
その原料のアーモンドは、大量の水を必要とし、環境負荷が大きいと言われている。
フェアトレードのチョコレートを買うのは素敵な行為だ。
でも、それを毎日買える“余裕”を持っていること自体が、
世界ではとても偏った立場であることも忘れてはいけない。
ビーガンやベジタリアンを見て思うこと
ビーガンやベジタリアンを否定したいわけじゃない。
でも彼らが「これは正しい」と胸を張るとき、
どこかで「それを選べない人たち」や「それを支える仕組み」は無視されがちだ。
動物を殺すのはかわいそう。
でも、植物は? 微生物は? 自己保存する生命であることに変わりはない。
結局、「自分が許せる範囲」だけを守っているにすぎないんじゃないだろうか。
それを正義と言うなら、それはただの“自己都合の正しさ”かもしれない。
「正しさ」で分断するのではなく
正義が悪いわけじゃない。
でも、それを振りかざすときに、誰かを下に見てはいないか。
本当に必要なのは「正しさ」よりも「共に生きる」という視点かもしれない。
牛乳を飲む人も、飲まない人も。
プラスチックを使う人も、減らしたいと思っている人も。
どんな立場の人も「ちょっと考えてみる」。
その積み重ねが、きっと本当の“やさしさ”に近いのではないかと思う。
天国に行きたいなら、まず“地上の現実”をちゃんと見つめよう。