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この世の生きにくさは10進数のせいだ

daichan

気づけば、数字ばかり見ていた

朝、目が覚める。
まずスマホを手に取って、睡眠時間を確認する。「6時間42分」──思ったより寝ていない。なんとなく損をした気がして、まだ布団の中なのに、すでに1ポイント減点されたような気分になる。

歯を磨きながら体重計に乗る。「昨日よりプラス0.6kg」
「昨日より」と比較する必要があるのかどうかも分からないのに、数字はやけに冷たく、正確だ。

出社してパソコンを開けば、業務管理ツールが「今週の達成率:73%」を表示する。
Slackの通知、チーム内のスプレッドシート、Googleアナリティクスのグラフ…。どれもこれも、数、数、数。

気づけば、私は一日中、数字を見ている。
自分の価値を、行動を、存在を、なにかにつけて“数”で測っていた。


数字が便利なのは分かっている。
でも、便利すぎて、自分の感覚のほうが鈍っていくような気がする。

ランチのカロリー、歩いた歩数、仕事の進捗率、SNSのいいねの数。
どれも自分で「見たい」と思って見ているはずなのに、だんだんと「見ないと不安」になってくる。

そのくせ、数字が自分の思う通りでなかったとき、傷つくのはこっちだ。


「今日は何歩あるいたか」より、「今日はどんな景色を見たか」のほうが大事だと思っていたはずなのに。
「何点取ったか」より、「何を感じたか」が大切だと信じていたのに。
気づけば、私はどこまでも「10進数の世界」にどっぷり浸かっていた。

そして、それが少しずつ、自分を苦しくしている気がしていた。


「◯◯歳なんだから」の呪い

「もう30代なんだから、そろそろ落ち着いたら?」
その言葉を言った本人は、軽い気持ちだったのかもしれない。冗談半分、気遣い半分、常識からくる善意。

でも私は、その言葉を何度も、何人からも、何通りにも受け取ってきた。
「◯◯歳なんだから」──それは、年齢という数字を使った、もっとも無自覚で、もっとも強力な呪いだ。


25歳なんだから、そろそろ結婚を意識したら?
30歳なんだから、正社員になったほうがいいよ。
35歳なんだから、子どもは考えてるの?
40歳なんだから、もう落ち着いた方がいいんじゃない?
50歳なんだから、そろそろ人に譲る立場でしょ。

誰が決めたんだろう。
何歳になったら、何をして、どういう性格で、どういう服を着て、どう生きるべきかなんて。


そして恐ろしいのは、言ってくるのは他人だけじゃないということだ。
自分自身の中にも、「◯◯歳なんだからこうしなきゃ」という声が住みついている。

その声は、夢を見ようとしたときに「もう遅いよ」と囁き、
転職や引っ越しに心が傾いたときに「今さら何を」と突き放す。
夜遅くにアイスを食べようとすると「その歳で太ったら戻れないよ」と笑ってくる。

そのたびに私は、年齢という名のゲートをくぐらされて、
その先の可能性を一つずつ、静かに閉じてきた気がする。


本当は、年齢なんてただの数字なのに。
たった一つの情報で、その人の全てを説明できるはずがないのに。

でも社会は、人生を「10年ごと」に並べたがる。
人を「アラサー」「アラフォー」とカテゴリに押し込める。
そして、そこに合わない選択をしようとすると、「非常識」「痛い」「無理してる」と言って、排除する。

そんな世界で、息を深く吸うのは、なかなか難しい。


もし年齢というラベルがなければ、
私はもっと、軽やかに動けただろうか?
私はもっと、好きなものを選べただろうか?

…そんなことを考えてしまう時点で、もう私は少し、呪われているのかもしれない。


でも、数字のない世界には住めない

数字に縛られて苦しい。
年齢で判断されるのが嫌だ。
評価を数値で表されるたび、自分が点数になったようで悲しくなる。

そう思ってきた。でも同時に、私は知っている。

数字がないと、生きていけない。


給料日を忘れずにいられるのも、数字があるから。
電車が時間通りに来るのも、1分単位の数字が管理しているから。
体温や心拍数で異変を察知できるのも、数字のおかげだ。

体重、年収、家賃、賞味期限、カレンダー、パスワード、郵便番号。
日々の安全や快適さの多くは、「数字の正確さ」に支えられている。

だから私は、「数字なんていらない」と言い切れない。
むしろ、数字によって守られている場面もたくさんある。
それもまた、事実だ。


問題は、たぶん“使い方”なのだ。

数字は本来、「物事をわかりやすくするための道具」だったはず。
でも気づけば、それが“価値そのもの”のように扱われている。

仕事が早い人より、売上が高い人が評価される。
親切な人より、フォロワーが多い人が「すごい」と言われる。
充実しているかどうかより、何歩歩いたかが語られる。

数字は、説明を簡単にするけれど、真実を簡略化してしまう。


私は数字を手放せない。
だけど、数字に自分を明け渡すことは、したくない。

「数字を使う」のか、「数字に使われる」のか。
その差に気づいたとき、私はようやく少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。


私は、数字に“従う”のではなく“使う”

あるときから、私は少しだけ数字との距離を置くようになった。
完全に離れることはできない。でも、支配されない距離感を持つことはできるかもしれない、と思ったのだ。


毎朝の体重計には乗らなくなった。
その代わり、鏡の前で「自分の体がどう感じられるか」を大事にするようになった。

ランニングアプリの“歩数”よりも、「今日は空気が気持ちよかったな」と思えるかどうかに意識を向けるようにした。

「あと何年で◯歳か」を気にする代わりに、
「今、自分が何にワクワクしてるか?」をノートに書くようになった。

数字を捨てたわけじゃない。
でも、数字を“自分の感情の代わり”に使わないようにしただけで、日々はほんの少し柔らかくなった。


ある日、後輩が言った。

「◯◯さんって、最近すごく自然体ですよね。年齢とか気にしてなさそう」

私は笑って答えた。

「気にはなるよ。数字の世界で生きてるし。でも、なるべく“道具”として見てるんだ。メジャーで測ってるだけ。自分を決めつける材料にはしたくないなって」

その言葉が、自分の口からすらすら出てきたことに、少し驚いた。


私たちは、数字と一緒に生きていく。
10進数の社会の中で、秒単位でスケジュールをこなして、年齢で扱われて、数値で評価されて。

でもだからこそ、その数字を“鵜呑みにしない力”が必要なんだと思う。

数字に振り回されるのではなく、数字を選んで使う。
評価ではなく、目安として受け取る。
他人のラベルではなく、自分の“ものさし”を育てていく。


今日も私は、10進数の社会で生きている。
だけど、10進数に生かされているわけじゃない。

その距離感を、これからも確かめながら進んでいきたいと思う。


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Petective
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情報を集めることが大好き。集めた情報を紹介しようとブログ開設。三度の飯より調べたい。本業は一部上場企業の技術系係長。2019年より投資を始める。2児の父。
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